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人は誰しも宇宙の星~宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読んで

最初に読んだのは小学生の時。次に読んだのは大学生の授業。
そして今もう一度、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み返した。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」

改めて読んでみて分かった。これは死ぬ間際にもう一度、最期に読みたい本だと。

―――

私がいた芸術大学の授業では特殊講義というものがあった。特定の作家や作品に対しての考察を深めるために用意された授業だ。そこで、『銀河鉄道の夜』ないしは宮沢賢治のこと、彼の創作した独特の世界観についてを掘り下げていく機会があった。

ある日の課題に”『銀河鉄道の夜』を自分なりに表現せよ”というものが出された。 それまで深読みをせず、表面だけをなぞりながら読んでいた作品だったが、ようやくその時初めて作品の深い部分にまで目を向け、様々なモチーフが意図するものと主人公・ジョバンニとその友人・カムパネルラの関係を、自分の中に”濾していく”作業をしたのである。

結果、とても難解だった。
宮沢賢治の作品というのは、彼と彼の作品を研究している人の多さから一つの学術分野として確立しているように、単純ではない。おそろしいほど哲学的で、難しい。キリスト教や法華経といった彼の中にある信心についてであったり、生い立ちや生き方等々を知れば、彼の生み出した作品の根底にあるもの――たとえば、死生観――などに到達することが出来るが、それ自体が難解である上に、その世界観は独特の域を極めている。

『銀河鉄道の夜』は、子どもも親しみやすい童話的な物語として描かれてはいるものの、宮沢賢治自身でしか描写することのできない様々なものたち、不可思議な世界、死生観、宗教的価値観、そういったものが微細にちりばめられている。
大学生の私はようやくこの物語の内包したとてつもなく大きい渦のようなものを感じて、途方のないジョバンニとカムパネルラの鉄道の旅に何日も思いを馳せ、そして一つの自説を編み出した。

―――
カムパネルラはもともと神の子で、死んでしまったのは神様に連れ去られてしまったからなのではないか。
同時に、ジョバンニにとっての鉄道の旅の先導役、彼にとっての「小さな神さま」だったのではないか。
―――

という説だ。
この説には神といった存在の残酷性、子どもという存在の神聖さも含ませていて、私はジョバンニ役のモデルにきらめく星のオーナメントの中に座ってもらい、天上に手を伸ばすよう指示した写真を何枚か撮影し、課題作品として提出した。

当時はこの作品を「ジョバンニ」そして「カムパネルラ」という異なる子どもが世界の理に触れ、もとよりこの2人には何か特別な「乗車権」があり、最後には大いなる存在――神によって元いた場所に帰される、もしくは連れ去られてしまう物語だと解釈していた。

しかし、改めて再び読んでみると、この銀河鉄道の旅においての死生観はどの乗客にも平等に敷かれていて、鉄道の旅は「もっと乗っていたい」「けれど降りなければいけない」という、自分の意志ではない、覆せない大きなもので決定されているのではないかという考えに至った。
この物語に天の川のごとく雄大に漂っているのは揺るがない宗教観・死生観であって、神に近しいのはカムパネルラでも、ましてやジョバンニでも他の乗客でもない。
神とはただひたすらに大きく、目に見えない存在だ。
彼らふたりは全くの純粋無垢な子どもでしかない、と私は授業以来にこの作品を読んで、初めて感じたのだった。

「カムパネルラ、またぼくたち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう」

ジョバンニの願いは叶わなかった。きっと彼は自らの境遇もあり、カムパネルラとじっくり時間をかけて話したいことがたくさんあり、もう二度と会えなくなる前に話したいことが、山ほどあったのだろう。
本当は自分の父親のことだって(その父が、最後にカムパネルラと引き換えになってジョバンニの元に戻ってくるのも、彼にはどうしようもできなかった世界の大きな理を感じてしまう)、学校のことだって、星のことだって、話したかったに違いない。
けれど別れは突然訪れる。まるで夢から覚めたかのように。
実際の身近な死も、そして自分自身の死も、きっとこんな感じにふいに、突然訪れるのだろうと思う。

天の川から見た星がちっぽけであり、しかしその集合体が大河のごとき流れを形作っているように、宇宙という広大なものの中に2人の少年がいて、その片方が死んでしまった時に、小さな星の存在を知る。

たおやかで、無常で、揺るがない茫漠としたエネルギーに、人はその身を委ねている。自分が死ぬことを悟った時、ゆっくりとこの物語に浸って、銀河鉄道に乗って旅をする夢が見られたらどんなに良いだろう、と思った。

きっと、悲しくなんかないのだ。ジョバンニがわけもなく悲しさを感じながらも、目の前の景色に瞳をかがやかせていたように。そこに美しい光景が広がっていたなら、それをカムパネルラと一緒に見られたことをただ歓ぶように。

2人は世界に生きる子どもでしかなかったけれど、世界には大いなるものの存在が地続きで漂っている。
それは私たちにも通じる。誰が神の子だとか、誰が誰を救ったとか。そういうことではなくて、ただの子どもとしてそこにいる。世界の子どもだ。大人もみんな、子どもだ。

そうしていつかはみんな、銀河鉄道に乗る。

「さよなら。」

1人、また1人と汽車を降りていく。

「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」

 この旅でどこまでも行けるけど、その前にきみともっと話したいんだ。

そういう思いを、生きている間はずっと抱き続けていたいと思う。
さそりの赤く燃える火や、十字架や、きれいなすすきの原を背にしながら。

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安藤エヌ

日芸文芸学科卒ライター。映画と音楽を中心に評論、レビュー、コラム等を執筆。「今」触れられるカルチャーについて、新たな価値観と現代に生きる視点で文章を書くことを得意とする。

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