ああ、青春とは、本来こうあるべきものなのだ。
若手の新鋭歌人が互いの歌を詠みあい、217首の短歌で物語を編んだ『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を読んだ。
最近になって短歌の可能性に惹かれ、たまに趣味で歌を詠んだりしているのと、男子高校生ふたりのひと夏の出来事を鮮烈に描いたミステリー、というキャッチコピーに手が伸びて購入した本である。
青春、と聞いて人が思い浮かぶのは、暖色系に溢れたいわゆる「普通の」「当たり障り無い」「幸せな」青春であろう。
桜の舞い散る中で3年間の思い出を振り返り、友と肩を抱き合い別れを惜しんだり、教室の窓から入ってくる風にうとうとしながら現代文の授業を聞く。昼食はみんなでおかずを交換し合い、放課後は恋愛話に華が咲き……など、テンプレートな青春像は時代が移ろい新しくなっていく中でも等しく通用するはずだ。
けれどこの本に書かれた「青春」は、少し違う。10代という年代にあるナイフのような鋭い衝動を、短歌という形でしか顕現出来なかった寂しく美しい男子高校生ふたりの姿が描かれている。
この本には特典として、メフィスト賞受賞作家の舞城玉太郎氏によるスピンオフ掌編が2編、収録されている。その掌編を読むと、この本に登場する短歌はとある男子高校生ふたりが詠んだ歌だということ、また彼らは学校という括りや生徒の輪に上手く馴染むことの出来ない、ミステリアスで聡明な雰囲気を漂わせた男子であるということが分かる。彼らの周囲にいる人物達は、めいめいに彼らとの接触についてこう言っている。
「夏前に、放課後、クラスの男子から短歌の作り方を教えてもらったときがなんか一生で一番エロかった、と唐突にパーセが言う。」
「青木慎一郎は別のクラスの子だし私は喋ったこともない。ハンサムとか運動ができる勉強が得意って雰囲気でもない。地味な子だし目立たない。」
そんな風に表現される、いわゆる<群集の一>としての2人、けれど少し他とは違う、濡れたような雰囲気を帯びている2人が、ある夏、共に謀って犯した行為について、饒舌な五・七・五・七・七の口調により語られているのが本作だ。
そこにはえもいわれぬエロチシズムがあり、若さゆえの危険性があり、そして抑え切れない衝動の尖端がある。主人公のひとりである青木慎一郎の家には歌集があった。青木の家に行った女子はそれを手に取り、短歌に触れる。
「短歌だって短歌を楽しむもので、短歌を楽しんでる自分を楽しんじゃいけない。」
7日間の出来事を短歌で詠んだ2人は、自分という存在を越え、短歌という、制約がありながらも何処にだって行ける、何者にもなれるもので、自分を罪の意識から遠い場所へと開放させていく。
教室に吹き込む風や、プールの底の水、ありとあらゆる<制約のあるものたち>を、短歌の中で解き放ち、自由のもとへと帰してやった彼らは、自分たちの犯した衝動のその先で、きっと自由などない場所へと囲われてしまうのだろう。失ったものは取り戻せない。彼らの愛した自由はそこにはない。それでも衝動を抑え切れなかった。
一瞬こそが美しい。彼らは一瞬の中に生きている。世界からずれて、死んでしまったものたちを僅かに悼み、次の瞬間には生まれたものたちに辟易している。この感覚は瑞々しい若さの中にしか無いものであり、それが過ぎ去ったあと、安堵感と同時に一抹の寂しさを覚えるのだ。
あの一瞬の中に、ずっと生きていたかった、と。
青春とは本当は、こうあるべきものであり、これが本当の姿なのだ。
揺らぎと衝動。エゴとヘイト。決して美しいといえないものたちが、短歌という洗練された美しい言葉の羅列の中で昇華されることなく沈殿したまま描かれている内容に、私の中に置き去りにされたままの青春時代が、偽りの共感を叫んでいた。
嘘だ。私はこんな青春、送ったことなどない。
なのに共感してしまう。そしてこの鮮烈で愛おしい、二度と帰らぬ時代へ戻りたいと、いつまでも窮屈な場所から訴えている。
【作品情報】
出版社 : ナナロク社 (2017/12/19)
発売日 : 2017/12/19
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