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若さというブランドを、着こなすのは難しい〜朝井リョウ作品に触れた20代を振り返って

正直、最後まで読めなかった。登場人物たちが、あまりにも「私」であったからだ。

自分自身の姿、居場所、行き先が曖昧な人がこの作品を読んだら、尾崎豊の歌詞のように外を無我夢中で走り回りたくなるだろうし、「私は誰?一体どこに行きたいの?」という質問を、無意味に英語で自分に問うてみたくなるだろう。10代、20代の若さというのはブランドなのだということを、朝井リョウは自らの作品をもってして教えてくれる。

ブランドものを身に着けて街を闊歩する自分を、ふとショーウィンドウで見たとき、「ああ、太っていて、不細工で、全然似合わないなあ」と我に返る瞬間のような心地を、『もう一度生まれる』の第2章「燃えるスカートのあの子」を読んだ後に感じた。自分が20代の頃は、「若さ」というブランドをうまく着こなせていなかった。どこかで羞恥があったり、劣等感を感じてしまう。ワナビー、高尚、意識高い系、そんな風に思われるのではないかという怯えがある。感性だけで生きている自分を、時々、重たい鈍器で叩きのめしてやりたくなってしまう。なのに、朝井リョウも、この作品に出てくる登場人物たちも、そんな加虐性を持つほど「若い」のに、それに対してたぶん、一切、後ろめたさを感じていない。ちゃんと、武器にしている。お洒落に着こなしている。私は多分、その振り切り方がうらやましかったのだろう。こうはなれないなあと思ってしまったから、そっと本を閉じた。「もう一度生まれる」のは、難しそうだった。

 “ えっ、今あたしにキスしたのどっち?

椿×。つばきばつ。あ。”

うーん、感性!という感じがした。上手くいえないけれど、これが、文法とか何とかイズムとか、小難しい技巧の一切ない、感性からはじきだされた文章なのだと。これを読んで、若者たちは「ああ~、分かるわ」とか感嘆の言葉を漏らしたり、ほう、とため息をついてみせたりするのだろうか。あれ、私もかつては若かったんだぞ。おかしいな。こういう一節を読むと、うわっと思ってしまうタイプなのは、私だけだろうか。

だいぶ前の話になるが、映画『桐島、部活やめるってよ』を観た。観る前に参考にしようとレビューをざっと見たところ、「全然面白さが分からない、つまらない、途中でやめた」という意見がちらほらとあり、そういったレビューが優勢だとしても、映画は主観で観ておかないと気が済まない私は、一抹の不安を感じつつ映画を観始めた。

なるほど、確かに抑揚がないし話のつかみどころが無い。これからが面白いのだろうか・・・・・・桐島って結局誰なんだ?焦らしに焦らされ、首が斜めに傾き始めたころ、その瞬間は訪れた。ちょうど、終盤にかけての見せ場、屋上に登場人物たちが一同に介する場面だ。それは『桐島、部活やめるってよ』というひとつの映画作品の、爆発的なカタルシスだった。若いからこそできる、すべてをめちゃくちゃにして、後で何だったんだろう、と訝れるような、くだらないのにいつまでもきらめきが失せない青春のカタルシス。さながら真夏の空に浮かぶシャボン玉だ。圧倒的なエモーショナルに心臓をもみくちゃにされ、いつの間にか映画は終わっていた。

最後まで観て思ったのは、良くも悪くも朝井リョウらしい作品ーーつまり、やっぱり”若かった”という事だ。若いというのは、一種のウエポンである。爆弾だ。中からアルプス天然水並みに透き通っていて冷たい水が弾け出てきそうな爆弾。丸善にレモンを置く、の現代版。少年は屋上で映画を撮る。そこで見た景色が、きっとこの、「桐島じゃない少年」の将来を左右することになるんだろう・・・・・・うーん、と思わず唸ってしまった。しかし、レビューにもあったとおり、大半の人はこの映画をつまらないと一蹴しているようで、そういう人はきっと私と同じなんだろうと思った。ある日都会へ行くのに、なぜかとてもださいスカートを履いてきてしまうような人。そう、それは私だ。でも私は、その日だけはちゃんとしたスカートを履いていた。そういう日も、稀にある。壊滅的にセンスが無いわけではない。たまには「若さ」というブランドを、センスよく解釈できる日もあるのだ。

「もう一度生まれる」ことは出来ないけど、「もう一度今日着ていく服を考え直す」ことは出来る。それって結構、簡単なようで難しい。

「燃えるスカートのあの子」で、主人公の翔多が言う。

 “スカート燃えたらパンツ丸見えじゃね?”

 そう、それが若者の、芸術に対する考え方の模範解答だ。スカートが燃えたらパンツが見える。それでいい。それが、私みたいな芸術気取ったアラサー女には堪えるのだ。それでいいのだ。若いという特権を無自覚に撒き散らしてもらっても、大いに構わない。その分だけ私は、まるで自分のパンツを誰かに見られているように羞恥し、内に閉じこもり、余計に面倒くさいアートチックな自分が構築されていく。そして、奇抜な色やデザインをした服を選びたがるのだ。

 まっさら、天然水、爆弾、みずみずしい。

そんなもので、若者たちは構成されているような気がする。そして、何度も生まれ変わってみるのだ。そうして恋をして、まだ若いうちにたくさん身体を繋げ、そのつながりがある日突然ぷつりと呆気なく切れて、ばかみたいに泣いたりしてみる。

今、私は箸が転がってもエモーショナルに感じる20代を過ぎ、しっかり30代特有の悩みに頭を悩ませている。とても現実的で、吐き気がするような、個人的な葛藤とともに生きている毎日。

そんな私でも、たまには無茶をして「若さ」というブランドものを着てみたくもなる。全然、まったく、笑えるほど似合ってなくとも。

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安藤エヌ

日芸文芸学科卒ライター。映画と音楽を中心に評論、レビュー、コラム等を執筆。「今」触れられるカルチャーについて、新たな価値観と現代に生きる視点で文章を書くことを得意とする。

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