大事なものだったのに、ある日忽然と姿が消えてしまった。
どうしても一度、お目にかかりたいのに何処にあるのか分からない。
何処に行っても見つからない、世界でたったひとつの代物。
そんなものを求める時、人はクラフト・エヴィング商會の扉を叩く。
書店の奥にひっそりと置いてあった本書に、目が吸い寄せられた。カバーに印刷された、標本箱のようなもの。これは一体何なのだろうという興味と、密かな好奇心を覚えた。
そして私の手元にやって来た一冊の本、『注文の多い注文書』。著者には私が盲目的に愛してやまない作家・小川洋子と、男女二名のアーティストグループであるクラフト・エヴィング商會が連名で並んでいた。
小川洋子は甘美かつ清廉な文体により「喪失」と「身体」と「執着」を主体とした物語を編むことに長けている作家だ。代表作『博士の愛した数式』でも「記憶の喪失」を細やかな筆致で描き、第1回本屋大賞を受賞した。並ぶクラフト・エヴィング商會は吉田篤弘と吉田浩美の二人からなるユニットで、ブックデザイナーとして活動するほか、著書に『どこかにいってしまったものたち』『ないもの、あります』などがある。「この世にないものを創り出す」という”無”から”有”への変換と創出を得意とするアーティストだ。これは、絶対に素敵な本に違いない。読む前から心が躍るのを止められなかった。
読み終えた後、本との一期一会は出逢った瞬間に感じた胸の高鳴りに従うほかない、と思った。表紙に一目惚れして買う本というのはつまるところ、視覚的な部分に刺激を与えられたから、という感覚衝動に近いものだと思うが、カバーに登場した標本箱があまりにも良い意味で浮世離れしていて、この標本箱の正体を知りたい、と純粋な子どものように思ったのだ。
実際、表紙を飾ったその標本箱に秘められたストーリーは熟成された蜂蜜のごとく、本読みにとっては糖度と密度の高いきわめて上質なものであった。どの物語もこの世界とは全く別の、普通に生きていながらでは表立って知ることの出来ない世界で営まれていて、そんなひっそりとした物語たちが、同じく目立たぬ場所に店を構えるクラフト・エヴィング商會に持ち込まれてくる――という理屈にも、なるほど確かに筋が通るような気がしてくる。
本書に描かれた五編は、文章と写真が交互に重なりながら、決められたルールによって展開される。
一、小川洋子扮する依頼主がクラフト・エヴィング商會に「品物」を注文するために注文書を出す
二、注文書を受け取った商會が、「品物」を捜し出し納品書と「品物」を依頼主に贈る
三、商會から「品物」と納品書を受け取った依頼主が受領書を出す
商會と客、という立場をよりリアルにするための商売形式で、物語は語られていく。
五つの物語でそれぞれ依頼主の注文書と受領書を書く小川氏、そして納品書を手掛けるクラフト・エヴィング商會。それぞれの「創作」がひとつの「品物」を生み出すために交差し、奥ゆかしい絶妙なテイストの物語と世界観を生み出しているさまは筆舌に尽くしがたいほど美しい。
そして本書の物語は必ず、発注案件一件につき一冊の本が関係している仕組みになっている。たとえばcase1では川端康成『たんぽぽ』に登場する”人体欠視症”に実際に罹患した女性が依頼主として現れ、その治療薬を商會に捜してもらうように依頼する。
またcase2ではJ・D・サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』から、固有種の魚”バナナフィッシュ”が持つ”耳石”(耳の中に存在する小石)なるユニークな代物が登場。これこそがサリンジャーの作品世界を解き明かすカギだと語るサリンジャー読書クラブの会長の依頼で、耳石を見つけ出すまでが描かれている。
どれもこれもが「そんなところから着想を」と感嘆してしまう程、時にとんでもなく奇妙で、モノそれ自体が抱く人間を翻弄する力にぞっとしたり、またモノが繋ぐ人と人の絆に心動かされたりする。
「モノ」とは、本当に不思議な存在だと思う。あとがきにある対談で著者たちもそのことについて語っており、クラフト・エヴィング商會の吉田氏はこう話す。
”そういえば、どうして物語の「もの」って「物」なんだろう。
人間の「者」じゃなくて。”
人が語る物語は、物ありきでその形を保っているのかも知れない。あるいは、物が有ること、それが先行してそこから尾のように流れて広がっていくのかも知れない。では、物が「無かった」としたら?「無い」物に思いを馳せている人間が語るのも、またそれはひとつの物語だ。
小川氏は言う。
“(中略)どんな難しい注文でも、「時間をかける」というエネルギーを使えば、必ず「ある」に辿り着けるんですね。”
「無い」物を、長い時間をかけて探し出す。そうしているうちに、求めていた人間もまた変化していく。物と時間と物語は絡まり合っていて、孤独を貫いてきた、一切手垢のついていない物を例外として(しかしそれもまた、孤独、という物語だということもできる)切り離しては存在できない。
だからこそ人は、自分の人生という時間と共に歩んできた物を、深く愛さずにいられないのかも知れない。
文章とは、言葉とは感情の共鳴する反射を呈した人それぞれに大きさの異なる容れ物なのかもしれないと思わせられる、まさに硝子箱のような本『注文の多い注文書』。
”無いもの”を探したくなったとき、そっとこの本を開いてみてほしい。息をひそめていたものたちの呼吸を、色を、匂いをふとした瞬間に思い出せることだろう。
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